「正しいことが正しく扱われていない」と思うことがあります。
戦争や暴力、まさに暴虐や不正が蔓延し、誠実に生きようとする人が報われない。そのような世界があると思うことがあります。
私たちの個々の歩みの中でも、そのような現実に直面し、心がかき乱されることがあるでしょう。
しかし、ハバククは「それでも…」と、なお神を信頼して生きる者に与えられる、主にある喜びと力を証ししています。
ハバクク書を簡潔にまとめるならば、「なぜ」「いつまで」と神に問いかけながらも、「しかし」「それでも」と、神を信頼し、神の正義を悟り、喜び、踊ることが出来る信仰に生きる者の内に湧き上がる神の力を記しています。
ハバククの時代、南ユダは神に背き、堕落し、偶像崇拝をはじめ、忌まわしい罪を犯し続けていました。そのような中で、ハバククは神に叫び、祈るのです。
神をなお信頼して、叫び、祈るハバククの信仰
「主よ、いつまで助けを求めて叫べばよいのですか。あなたは耳を傾けてくださらない。「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに あなたは救ってくださらない。」(1章1-2節)
神の前に正しく生きる者が、神に逆らう者に苦しめられ続けている。それなのにどうしてあなたは救ってくださらないのか。そう叫ぶのです。
NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』でよく耳にする言葉、「逆転しない正義はあるのか」という問いがあります。
たとえば、私たちがよく知る作家の三浦綾子さんは、戦時中、「日本は正しい戦争をしている」と信じ、子どもたちを教育しました。ところが戦争が終わると、当時の日本の正義は偽りだったことが分かり、どうしようもない虚しさ、そして絶望を抱くことになります。「正義」と信じていたものが崩れ去ったからです。そのような絶望の中で、三浦さんは逆転しない、決して崩れ去ることのない正義、主イエス・キリストの神に出会ったのです。
しかし、ハバククの場合、さらに事態は深刻でした。
なぜなら、神は正しい方で、悪を憎み、正義を貫かれる方のはずなのに、現実はまったくそう思えない。決して逆転しないはずの神の正義が、一体どこにいってしまったのか、とハバククは苦悩するのです。
「なぜ、あなたは災いを私に見せ 労苦を眺めたままなのですか。私の前には破壊と暴虐があり 争いといさかいが起こっています。
こうして、律法は力を失い 正しい裁きがいつまでも下されません。悪しき者が正しき者を取り囲み そのため、裁きが曲げられています。」(1章3-4節)
「律法は力を失い」とあります。神の言葉には権威があり、人を変える力があるのに、人々は、その神の言葉に立ち返り、神の言葉に従って生きようとしませんでした。
正しいことを述べている神の預言者たちが嘲られ、悪しき者たちに囲まれ、その裁きが曲げられてしまう。義なる神がおられるのに、正義が逆転している。そう思えてならなかったのです。
それでもハバククは、神を信頼しているからこそ、人に頼ることなく、ただ神に向かって叫び、祈り続けるのです。
私たちも、不満、納得できないことに直面するとき、人にではなく、神に信頼し、神に叫び祈る信仰に生きる者でありたいと思います。
納得のいく答えを神からもらえない中でも、なおハバククの信仰
神はついに、このハバククの祈りと訴えの叫びに答えられます。
「……あなたがたは、そう告げられても信じないだろう。私はカルデア人を興す。彼らは残忍で残虐な国民。」(1章5-6節)
ハバククは、神が南ユダの民の堕落を悲しみ、懲らしめて悔い改めへと導き、民が神に立ち返り、大リバイバルが起こる。その時が来ることを願っていました。
ところが神の答えは、カルデア人(バビロニア)を通して、南ユダを裁くというものでした。南ユダよりも、はるかに邪悪なカルデア人を用いて神が南ユダを裁かれることは、ハバククにとって、受け入れがたいことでした。
神の答えは、時として信じがたいことがあります。
しかし、ハバククは、それでも主を信頼し、「主の正義は決して逆転しない」ということを悟ることになっていくのです。
ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)
逆転しない正義とは(ハバクク書1・1~11)