私の身に起こったことが福音の前進に
使徒パウロにとって「私の身に起こったこと」とは、イエス・キリストの福音宣教のために投獄されたということです。大きなマイナスに思える出来事です。
しかし、共におられる主イエスの御手の中で、私の身に起こっているマイナスに思えることがプラスとなるとパウロは証ししています。
「きょうだいたち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進につながったことを、知っていただきたい。つまり、私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り」(フィリピ1・12~13)
パウロが、肉体的な弱さを覚え投獄される中で、兵営全体、いや、すべての人にキリストの福音が伝わることになりました。しかし、それだけではありませんでした。
「主にあるきょうだいたちの多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。」(14)
普通ならば、自分たちにキリストの救いをもたらしたパウロが捕らえられ「これからどうなるのだろう」と不安になって、怖気づいてもおかしくありません。しかし、彼らはキリストの福音を大胆に語るようになったのです。なぜでしょうか?それは獄中でも落胆せず、むしろそれをチャンスととらえ、喜んで福音を分かち合ったパウロの姿に励まされ、キリストの福音の言葉を鎖につなぐことは誰にもできないと確信し、励まされたのです。
パウロがかつて、自分の病を癒してくださいと切に祈ったとき、主から「私の恵みはあなたに十分であり、力は弱さの中で完全に現れるのだ。」と答えが返ってきました。そして、この時、病を身に負っているばかりか投獄され鎖につながれるという弱さの中で、主の力が完全に現わされ、福音が前進し、他の福音宣教者たちを奮い立たせたのです。
さてパウロが投獄されたことを機に、純粋にキリストの愛によって、聖霊の励ましによって立ち上がる者も多くいたのですが、そうでない者もいたのです。(16~17)ある者は妬みと競争心、利己心から福音を語り始め、キリストご自身ではなく、自分をアピールする者もいたのです。
けれども、パウロはここで驚くべきことを言っています。「だが、それが何であろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、私はそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(18)パウロにとって大切なことは、自分の立場や評判を守ることではなく、「キリストが告げ知らされること」でした。
私の身によってキリストが崇められる
だからパウロは、「私の身によってキリストが崇められる」(20)ことを心から願ったのです。
パウロは、自分がこのまま地上での生涯を終えたとしても、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストが崇められることだけを願いました。
「なぜこのようなことが私の身に起こるのか」という現実の中で「なぜ」を問うのではなく、パウロのように、その現実の中で、生きるにも死ぬにも、キリストがどう崇められるのかを見ようではないかと信仰の目を更に大きく開かせていただきましょう。
ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)