主の目に幸いな者とは

主の言葉は必ず実現すると信じた人
 主なる神の目に幸いな者とは主の言葉が必ず実現すると信じた者です。

 エリザベトがマリヤに「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ1・45)と告げたとき、夫ザカリヤのことが心にあったと思います。ザカリヤは、妻エリザベトが男の子を産むと天使に告げられたとき、そのことを初め信じなかったのです。そしてこの時から、口が利けなくなっていました。「時が来れば実現する私の言葉を信じなかったから」でした。(1・20)

 マリヤは、「主のおっしゃたことは必ず実現すると信じ」すべてを委ねました。そう告白したマリアに対して「なんと幸いでしょう」とエリザベトは告げたのです。
 主なる神の目に幸いな者とは、神の言葉は必ず実現すると信じる者です。

主の前にへりくだった人
 そして主なる神の目に幸いな者とは、主の前にへりくだった人です。

 「そこで、マリヤは言った。「私の魂は主を崇め 私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」(46~47)「崇める」という言葉から、マリヤの賛歌は、マグニフィカートと呼ばれています。それは、相手を最大限に大きくするということです。

 マリヤの心の中で、神様のことが大きくなり、マリヤの霊は、救い主である神を喜びたたえました。それは、マリヤが主の前にへりくだる者であったからです。そして、マリヤは更にこう告白しているのです。「この卑しい仕え女に 目を留めてくださったからです。」(48)

 マリヤが「卑しい仕え女」と自分を表現しているのは、私のような小さき者、取るに足りない者に主が目を留めてくださったからです。神は、謙遜な人、へりくだった人を重んじられ、祝福して用いられるのです。

主を畏れる者
 そして主なる神の目に幸いな者とは、主を畏れる者です。「その御名は聖であり その慈しみは代々に限りなく 主を畏れる者に及びます。」(50)神様は、主を畏れる者に目を留め、祝福され用いられます。主を畏れない人は、自分を大きく見せようとして虚勢を張ったり、自分をごまかしたりします。小さなプライドにしがみつき、人の目を恐れ、気にして生きているのです。そのような人の行く先はどうなるのでしょうか。

 「主は御腕を持って力を振るい 思いあがる者を追い散らし 権力のある者をその座から引き降ろし 低い者を高く上げ」(51~52)とあり、つき放す冷たい言葉にも思えます。しかし、そのような人たちを主なる神が愛しておられないのではありません。高ぶる者の心が砕かれ、低くされるとき、そこで愛の神に出会うことができるからです。なぜならば、マリヤから生まれてくださった御子イエスは、神の身分に固執することなく、僕の姿を取られ、もっとも低くなられました。ですから、心砕かれ低くされた者は、主を畏れる者とされ、そこで主に出会い、高く上げられるのです。

 アドベントの日々、私たちの内に、高ぶる心がないでしょうか。もしそうならば、私の心の高ぶりを砕いてくださいと祈りましょう。

 主の目に幸いな人とは、主の言葉は必ず実現すると信じる人です。そして、主の前にへりくだり、主を崇め、主を畏れる人です。主はその人に目を留めてくださり祝福してくださるのです。

ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)