(ヘブライ人への手紙2・1~3)
「だから、私たちは押し流されないように、聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。」(1)
この「押し流される」とか「注意を払う」と日本語で記されている聖書の言葉は、当時、船が航海するときに使われていた言葉です。押し流されるは、漂流するということ。そして、注意を払うは、心に留めるとも訳せますが、元の言葉は、船が港に停泊するということです。
船が港に着いたにも拘わらず錨をおろさない、あるいは港につなぎ留められていないと押し流されてしまいます。
『人生の海の嵐に』(新聖歌248番)の賛美に「逃げ込め港に」という歌詞があります。私たちにとっての逃げ込む港、それは、イエス様です。キリストの体なる教会です。港であるイエス様の内に憩うということは、イエス様にしっかりと結ばれ、イエス様に対する信仰の錨をおろすことです。そうでなければ、どこかに押し流されてしまうことになります
私たちは、キリストの体なる教会に共に集まって礼拝をし、主にあって交わりの時を持ちますが、一週間の多くの時間は、この世の様々な営みの只中にあります。日々の生活の中で、いろいろな情報が私たちの耳に入ってきます。イエス様を遠ざけてしまうようなことに耳を傾け続けるならば、私たちと共におられる主イエスのことを忘れているかのように生活し、知らない内に押し流されてしまうということが起こり得るのです。
私たちと一緒に歩んでくださる主イエスが、心の隅に追いやられ、忘れ去られているような状態になっていることがないでしょうか。
忙しいと思っている人は少なくありません。隙間時間でも、聖書の御言葉に心を向けることはできます。スマフォに聖書アプリやディボーションのアプリを入れ、いつでもどこでも開くこともできます。私たちが日々の生活の中で、押し流されないようにするために、御子イエスの福音の言葉にいっそう注意を払うのです。
「私たちは、これほど大きな救いをないがしろにして、どうして報いを逃れることができましょう。」(3)
御子の尊い命、代価によって、罪の奴隷であった私たちは、罪赦され、神の子とされ、私たちの内にお住まいくださる聖霊様を通して、主イエスと共に生きるという素晴らしい恵みを与えられています。
その私たちが、御言葉に導かれ、生かされ、日々新たにされ、キリストの似姿に変えられていくという日々を送らないとするならば、この大きな救い、イエス・キリストによる救いをないがしろにすることなるのです。
そうならないためにも、私たちは、しっかりと御言葉を心に留め、この世の営みに押し流されず、生かされて歩ませていただきましょう。
ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)