「だから、神の安息に入る約束がまだ残っているのに、入り損ねる者があなたがたのうちから出るなどということがないように、注意しようではありませんか。」(ヘブライ4・1)
私たちが主イエスと共に歩み出し、神の安息を得ているのは、過去のことでなく、今現在も、そして、これからも主との交わりの中に留まり続けるからなのです。
私たちは、主イエスに結ばれ、聖霊の宮とされ、キリストの体なる教会として、既に神の安息に入っているのですが、同時に私たちは永遠の神の安息の地、御国への信仰の旅路を進めています。
その私たちはどんな注意を払ったらよいのでしょうか。
「だから、私たちはこの安息に入るように努めようではありませんか。さもなければ、同じ不従順の例に倣って落伍する者が出るかもしれません。」(4・11)
「安息に入るように努めよう」とありますが、それは決して頑張りなさいとか、努力しなさいということではありません。「努めなさい」とは、もっと主なる神を信頼し続けなさいということです。
私たちは、自分の力不足で永遠の神の安息に入れなくなることはありません。むしろ神への信頼不足で入れなくならないように注意を払うのです。
「神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだのです。」(10)とあるのは、この地上での信仰の生涯を終えて、永遠の安息に入ることと受け止めることもできるが、同時に、自分の頑張り、努力で救いを完成することではなく、神の安息の内に憩わせてくださる、主イエスをもっと、もっと、もっと信頼して、主に委ね切る生き方に変えられていくことです。
そのためにも、神の言葉に生かされ続ける必要があります。「神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。」(12)
両刃の剣とは、外科医が手術で用いるメスのようなもので、鋭く良く切れるのです。神の言葉は、両刃の剣として、人の心の中にある思いと考えを見分けることができます。
「神の前にあらわでない被造物はなく、すべてのものは神の目に裸であり、逃れることはできません。私たちはこの神に弁明しなければなりません。」(13)
神は、ご自身が造られた被造物を誰よりもよくご存じです。私たちは、自分のことは自分が誰よりもよく分かっていると思ってしまうことがあるのですが、実は良く分かっていないのです。私たちのことを私たち以上に良く分かっておられるのは神ご自身なのです。
神の言葉というメスは、刺し貫くのですから、痛みを伴いますが、私たちの心を癒す恵みの御業です。私たちに過ちを気づかせ、頑なな心を砕き、気づかせてくださいます。
そして、私たちは、罪の弁明をしなければならないのですが、私たちには罪を完全に贖ってくださった主イエスがおられるのです。
御言葉に生かされ、主イエスと共に歩み続けるならば、永遠の神の安息に入り損ねることはありません。
ですから、私たちは皆一緒に、今日も、神の声、神の言葉を聞き、頑なな心、不従順な心を砕いていただき、益々主を信頼し、御言葉に生かされ、神の永遠の安息へと旅路を進めてまいりましょう。
ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)
神の安息に入り損ねる者が出ないために