ヘブライ人への手紙の記者は5章1節~4節で、アロンに連なる大祭司について主に4つのことを記しています。
まず「大祭司は皆、人々の中から選ばれ」(5・1)とあるように、大祭司は人間であるということです。
そして「この大祭司は、自分も弱さを身に負っているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」(2)とあるように、人々を思いやることができるということです。
「また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のための供え物を献げねばなりません。」(3)
大祭司は、又、弱さを持っています。特にここでの弱さとは、罪人であるということです。だから自分のためにも、罪のための供え物を献げました。
そして「アロンのように神に召されて受けるのです。」(4)とあるように大祭司は、神に召された者たちで、人が勝手に選んだのではありません。これらが大祭司の持つ資質です。
それでは、イエス様は、この大祭司とどこが同じで、どこが違うのでしょうか。
「同じようにキリストも、大祭司となるという栄誉をご自分で得たのではなく、こう言われた方がお与えになったのです。」(5)同じようにキリストも、と始まっています。イエス様も、自分で勝手に大祭司となる栄誉を得たのではなく、父なる神から任命を受けられたのです。
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。」(8)イエス様は、真の人となられ、苦しみを通られ従順を学ばれました。従順とは、聞いたことに従うということです。イエス様は、全く罪のないお方ですから、ご自分のための犠牲は、必要としません。
従順を学ばれた主イエスは、最後、ご自分のためではなく、私たちのために、完全ないけにえとして、ご自身をささげてくださったのです。それは、真の人となられた偉大な大祭司イエスが、この地上での生涯の最後の最後まで父なる神の御心に従順であられ、十字架の贖いを成し遂げてくださったからです。「そして、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源となり、神によって、メルキゼデクに連なる大祭司と呼ばれたのです。」(9〜10)
完全な者とされたとは、イエス様は、完全に父なる神の御心に従順であったということです。
キリストは、今も昔も、メルキゼデクに連なる大祭司、永遠の神の大祭司なのですが、真の人となって、苦しみを通られ、従順を学ばれて、完全な者とされ、永遠の救いの源、永遠の神の大祭司となられました。
メルキゼデクとは、メルキは、王という意味、そして、ゼデクとは、義という意味です。ですから、メルキゼデクとは、義なる王という意味です。
主イエスが、メルキゼデクに連なる大祭司であるというのは、イスラエルの歴代の王とも違う、歴代の祭司とも違う、義なる王である大祭司、永遠の救いをもたらす大祭司だからです。
「ご自分に従うすべての人々にとって」(5・9)とあります。私たちは、その永遠の救いの源である大祭司イエスによって、罪赦され、義とされ、永遠の救いに導かれた私たちは、このお方に従って歩む者です。
マルティン・ルターによる宗教改革の柱は、聖書のみ、信仰のみ、そして、3つ目は、万人祭司であります。私たちは、牧師だからとか、信徒だからではなく、キリストに従う者として、祭司のように歩む者として召されているのです。
私たちは、自分も弱さを身にまとっていますが、弱さの中にある者を執り成し祈り、思いやる者として、何よりも、永遠の救いの源である主イエスに従いつつ、人々を導く者として、歩ませていただきましょう。
ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)