バイブルメッセージ

2025.11.01

イエスを求め、聞き、信頼する信仰 (ヨハネ4・46~54)

イエスを捜し求める信仰

ある王の役人の息子が病気で瀕死の状態でした。イエスがカナの婚礼席でぶどう酒が足りなくなったとき、水を葡萄酒に変えた奇跡、あるいは、エルサレムでの奇跡の業について聞いていたのでしょう。そして、イエスならば、息子を癒してくださると信じイエスを探し求めたのです。


もし、誰かが主イエスのなさったことを見聞きしても、それを告げ知らせなかったとしたら、この役人がイエスのことを知ることはなかったでしょう。人々はこの時、イエスが本当の意味でいかなる方か、わかっていなかったでしょう。それでもイエスのことを伝える人がいたから、それを聞いた誰かがイエスと出会う機会を与えたのです。

 「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子を癒してくださるように頼んだ。」(47)

ここをサラッと読んでしまうと、この役人がいとも簡単にイエスに会うことができたように思えますが、そうではありません。なぜなら、この役人がいたカファルナウムからカナまでは約30キロも離れていたからでした。しかも自分がそこに着いた時に、イエスがそこに留まっている保証もないのに、どうしてもイエスに会って、息子を癒していただきたい、そう願ってイエスを探し求めたのです。

私たちはどうでしょうか? 自分が今、直面している課題に対して、自分でどうにかしようと必死にもがいてしまい、共におられるイエスを信頼して助けを求めることを忘れていないでしょうか。この役人にとって、イエスを探し求めるのに地理的距離も、時間も問題ありませんでした。彼はイエスを必死で探し求めました。そして遂にイエスとカナで会うことができ、カファルナウムまで下って来て息子を癒して下さるように頼んだのです。

ところが、イエスは、その時こう言われたのです。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48)役人は、実際にイエスが来て、息子に手を置いて祈ってくれ、癒してくださることを願っていました。目に見える形でイエスがしてくださることを期待していたのです。そのことをイエスは見抜かれこう言われたのです。それでも「王の役人は、『主よ、子どもが死なないうちに、お出でください』と言った。」のです。

主の御言葉の力を信じる信仰

するとイエスは、その父親に、驚くべきことを言われるのです。

 「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きている。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」(50)

この役人は、イエスを探し求め、イエスについて聞き、イエスに出会い、遂にイエスの言葉を聞いて、信じました。息子が今どのような状態なのか分からなくても、イエスが「あなたの息子は生きている」と言われたその言葉を信じました。「それゆえ、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。」(ローマ10・17)と使徒パウロが述べていますが、まさに御言葉を聞き、御言葉の力を信じることこそが信仰者の生き方です。

私たちはイエスに祈ります。御言葉の約束を信じて祈るのです。そして、御言葉が既に成ったと信じる信仰に生きるならば、必ず神の御業を見ることができます。

この役人が御言葉を握って帰路につくと、迎えにきた僕たちから、役人の息子が元気になったことを告げられます。そして、癒された時間はイエスが「あなたの息子は生きている」と言ったその時であったことを知るのです。

しかし、この役人の息子の癒しは、単なる病の癒しで終わりませんでした。この役人も息子も家族みんながイエスを信じる信仰によって救われました。何を信じたのでしょうか。もちろんイエスを信じたのです。イエスは、「あなたの息子は生きている」と言われました。この「生きている」と言う言葉の原文の名詞は、ゾーエーという言葉で、永遠の命を指し示すのです。あなたの息子が生きているとは、ただ病が癒されたということではなく、あなたの息子にイエスの命、永遠の命が宿ったということです。病気は治っても私たちは地上においてはいつか死を迎えますが、この役人の家族は、この世の死で終わらない永遠の命にあずかることを信じたのです。私たちも、この世で朽ちる命ではなく永遠の命を与えてくださるイエスを探し求め、御言葉の力を信じ、神の命に生きる者とならせていただきましょう。

ウェスレアン・ホーリネス教団 浅草橋教会(牧師・山崎 忍)

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